
ヨハンナ・シュピリ 関泰祐・阿部賀隆訳 『アルプスの少女ハイジ』 角川文庫
「アルプスの少女ハイジ」といえば、アニメがなつかしいですねー。
とろーり溶けたチーズを乗っけたパンがめちゃくちゃ美味しそうだったなぁ。
調べてみれば、放送されたのは私が生まれる前なので、子供の頃に見ていたのは再放送だったんですね。
そういえば、リアルタイムでいつも見ていたアニメ、というと「ドラえもん」ぐらいしか思いつかないきょうこのごろ。
ということで原作版「アルプスの少女ハイジ」です。原題はHeidis Lehr- und Wanderjahre、ゲーテを意識していますねぇ。作者のJohanna Spyriはゲーテに傾倒していたそうなので、それもそのはず。1827年チューリヒ近くの農村で牧師の家に生まれる。農村生まれでも非常に文化水準の高いなかで育ったようですね。後にはリヒャルト・ヴァグナーとも交友があったということです。今よりももっと自然が残っていた時代の人なのでこうした作品中の自然と生活の描写はまさに本物。
物語はハイディがデーテおばさんに連れられてマイエンフェルトの村からさらに山を登ったところにあるアルムおじさんの山小屋へと向かうところから。途中で会った村人からは、あのおじいさんに子供を預けるなんて正気の沙汰じゃないと非難されてしまいます。アルムおじさんはヘンクツ者でとおっているし、デーテおばさん自身も実入りの良い仕事を得るためにハイジを預けようというのですから。こうして山の生活に入るというところはアニメも同じでしたね(いや、アニメが原作どおりだというべきか)。
でも、原作の最大の特徴は宗教色が強い、というところでしょうか。ハイジは自然のなかで育つうち、体力や素直さという良いところも得るわけですが、精神面はどうしても荒削りでしかない。そうしたところを、デーテおばさんに欲得づくで強引に連れ去られたフランクフルト(・アム・マイン)のゼーゼマン家のおばあさんからの宗教的示唆によって成長させていく、という。ビルドゥンクスロマーンの要素があるところは古典的な小説という感じがします。あくまで欲に生きるデーテおばさん、頑迷で村や教会に背を向けていたアルムおじさん、学校に行こうとせず、字の読めないままのペーター。彼らをハイジが回心させていく、という宗教的な要素も持った作品だったのですね。
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nyu : 2009年02月15日 17:47 | Permalink | Comments (0) | Trackbacks (0) | その他

トマージ・ディ・ランペドゥーサ 小林惺訳 『山猫』 岩波文庫
ルキノ・ヴィスコンティの映画「山猫」の原作となるのがこれ。読んでみると、この映画は3時間になる大作なだけにほとんど原作を省略していないということがわかります。しかし、文字ならではの深い陰影には映画にはない味わいがありました。原文は凝った格調高い文章であると訳者解説にあるように、訳文もたいへん上手なせいか、じつに豊穣な語りで作品中の時の流れは壮大ながらも、読むに当たっては時を感じさせない程に引き込まれる文章でした。
1860年。シチリアはナポリ王国とともに「両シチリア王国」としてブルボン朝のフランチェスコ2世をいただいていたのですが、この年、ジュゼッペ・ガリバルディが千人隊(赤シャツ隊)とよばれる義勇兵を率いてシチリアに上陸、“解放”し、サルディーニャ王(のちイタリア王国初代国王)ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にゆだねます。そんな激動の節目のある日、サリーナ公爵ドン・ファブリーツィオの一家の礼拝から物語は始まります。たくましい体躯とライオンのような髭、やや怒りっぽい性格と壮年に入っても衰えぬ色欲を持つシチリアに古くから続く貴族の末裔はアマチュア天文学者としても名を知られるほどの個性をもった人物です。彼がサリーナ公爵家を継がせたいと考えているのは明るく誰にでも好かれるユーモアの持ち主である甥のタンクレーディ。彼はガリバルディの赤シャツ隊に入っているように新しい世代を象徴するような若者として描かれています。映画では、公爵ドン・ファブリーツィオはバート・ランカスターが、甥のタンクレーディはアラン・ドロンが演じていました。
公爵には娘が幾人かおり、なかでもコンチェッタはやや控えめな性格ながらも美しく、タンクレーディとの結婚も考えられていました。しかし、公爵一家が領地の見回りのために旅した際に出合った裕福なブルジョワ階級の娘アンジェリカとの出会いに一家の運命もまた変わります。独特の燃えるような情熱と魅力に満ち溢れたアンジェリカにタンクレーディは恋し、またアンジェリカもタンクレーディの魅力のとりことなったのです。アンジェリカの父親は新興のブルジョワ階級で貴族ではありません、しかし莫大な財産をもっています。貴族は貴族どうしで結婚するもの、ではあるものの、ドン・ファブリーツィオはこの結婚には賛成しています。ひとつにはサリーナ公爵家じたいの財政状況を考えて、そして彼自身もアンジェリカの魅力とタンクレーディの魅力のとりことなってしまっていたからです。それは自身の憧れとともに若い世代への希望でもあるのです。狩に出たシチリアの風土の描写とともにこれら公爵の内心が、まさにシチリアの土地と一体になった公爵の心として描かれます。なにより、荒々しく、ときには頑迷なところも見せる公爵じしんがシチリアの風土を体現しているといってよいでしょう。
そんなシチリアについて、公爵を新生イタリア王国の上院議員にと政府の役人が要請しにやってきた際のやりとりによく現れています。彼は政治家として民衆を率いていくことを拒絶します。それは彼が古い時代の制度のなかの人間だからです。
二千年前から、ここは植民地なのです。259頁
私はやむをえずブルボン王家と妥協せざるをえなかった、古い階級を代表する人間です。愛情の絆は欠けていても、<礼節>の絆でその王制と結ばれているのです。265頁
彼は古いシチリア貴族として、古い世界にしか生きていけない人間であるということを明らかにします。それが、ガリバルディのシチリア上陸にはじまる一連の騒動への彼の態度であるのです。そして、それが、「二千年前から、ここは植民地なのです」といわしめたシチリアの歴史そのものでもあるのです。シチリアは中世の時代から、イスラム勢力に占領されたり、またそれを回復したノルマン人たちの王朝(オートヴィル朝)であったり、フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ)亡き後のアンジュー家の支配、「シチリアの晩祷」事件後のアラゴン王家の支配、そしてブルボン家の支配。つねに外来の勢力の支配に服してきた歴史のことです。「マフィア」に代表されるような閉鎖的な民衆の風土もまた、常に「よそ者」を意識して抑圧のなかに生活せざるをえなかったシチリア民衆の暗い面なのです。公爵には現在においてもやはり外来の勢力による支配が行われるであろうことが見えていたのですね。実際にイタリア併合後のシチリアは今までより更に重い課税や徴兵(農民にとっては働き手を奪われる)によって更なる混乱が続くことになります。そんな民衆の姿は公爵家の家付き聖職者のピッローネ神父が郷里に帰る場面でくわしく描かれています。
お気に入りの甥が、お気に入りの新婦を手に入れるということで喜ばしい公爵一家ですが、一方では娘コンチェッタの苦悩も描かれています。タンクレーディに恋していたものの、アンジェリカにとられてしまった形になる娘の悲劇。シチリアの女として彼女もどのように生きていくのかということも本書には最終章で重要な題材として取り上げられています。さて、そんな若い2人がもっとも輝く見せ場が舞踏会の場面です。映画でも豪華絢爛な映像になっていたように、小説でもこの舞踏会は古きシチリア貴族の伝統を象徴するものになっています。しかし、そのなかでドン・ファブリーツィオはやや浮いた存在であることも否めません。
あたかも自分が、何百という猿を監視するために設けられた動物園の園長になったような気がした 323頁
知り合いの貴族たちとは古くからの付き合いで、そのなか2,3人の夫人はドン・ファブリーツィオの昔の恋人でもあったということですが、今もって男として意気軒昂な公爵から見ればすでに若かりし頃の面影を失った女性たちを見ることは憂鬱の種でしかないのです。若い娘たちも若者たちも、公爵から見れば不満だらけ。豪華だけど時代遅れの派手さをたたえた部屋のなかで彼は孤独のなかに落ちていくのです。そんな公爵に声をかける若い2人。タンクレーディとアンジェリカ。アンジェリカは公爵をダンスに誘います。ここで彼は救われることになります。お気に入りの2人だけが彼の希望なのです。
アンジェリカの肩の襟刳りからは、香水《元帥夫人の花束》と、さらにはそれ以上に、若々しく艶やかな肌の香りが立ち上ってきた 335頁
官能もまた、公爵にとっては否定されることのない価値のひとつであるのです。それをお気に入りの甥のタンクレーディが自分の似姿として手に入れることが公爵にとってはなによりの喜びなのでしょう。映画もすばらしいけど、ややねっとり目の描写と心情の陰影は文字でなくては味わえないものです。この小説はシチリアという土地の悲しい歴史と、イタリア併合に伴う未来を見通せない混乱のなかにありながらも喜びを見出して生きる公爵ドン・ファブリーツィオの姿が印象的です。
最後に、
永遠以外のものを憎む資格など人間にはない 329頁
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Tags:Giuseppe Tomasi di Lampedusa, シチリア, ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ, 山猫
nyu : 2008年12月09日 22:01 | Permalink | Comments (0) | Trackbacks (0) | その他
トーベ・ヤンソン 冨原眞弓訳 『誠実な詐欺師』 ちくま文庫
ヴェステルビィというフィンランドの海沿いのちいさな町。カトリ・クリングは10歳年下の15歳になる弟マッツとともに暮らしている。彼女は早くに親をなくし、雑貨店の店員をするなどして弟とともに暮らしてきたが、店主との反目からその店員の職も失ってしまっている。彼女は「誠実」だ。しかしそれは彼女の何者にも心を開かない性格の一部でもある。いつも行動をともにしているシェパード犬が一匹。彼女は犬に名前を付けない。そんなとき、「兎屋敷」と呼ばれる古い家に住む裕福な絵本画家アンナ・アエメリンとの交流がはじまる。彼女は土の匂いも描き出すという細密な絵を描くが、そこにはきまって花柄の兎を描きこむ。お人よしで、家事のできないアンナのためにカトリは働くが、カトリはそこで「誠実な詐欺師」としての自分の仕事を見出していた。
「ムーミン」シリーズの作者として有名なトーベ・ヤンソンが描く北の町のおとぎばなし。カトリとアンナの正反対ともいえる人間の交わり。そして互いの境遇をこえた成長。幻想的でありながら現実の鋭さを忘れてはいない一冊だった。
Tags:トーベ・ヤンソン
nyu : 2008年11月27日 21:20 | Permalink | Comments (0) | Trackbacks (0) | その他
ボッカッチョ 河島英昭訳 『デカメロン』 講談社文芸文庫
デカ、つまり10日にわたり物語られる物語集です。先にジャンバティスタ・バジーレの『ペンタメローネ』(五日物語)に触れたことがありますが、以前読んだチョーサーの『カンタベリ物語』などこの手の物語集が各地で編まれることになった本家本元がこの『デカメロン』です。
場所はフィレンツェ。花の都とはいったものの、物語の舞台とされた1348年はペストの災禍の極まれる悲惨な時期です。冒頭ではこのペストの流行がいかに悲惨なものであったか、ちょっと気持ち悪くなるほどに描写されています。本書で語り手となる10人の男女はこの疫病をなんとか逃れるためにひとまず郊外へと移り、これまで生き地獄ともいえるなかをなんとか生き延びたのだからしばらくは皆でただひたすら楽しみのみを追求しようという意見で一致します。ペストの死と俗世間の荒廃から逃れ、物語の「枠」となる別世界がこれで設定されるわけですね。
7人の貴婦人と3人の貴公子がそれぞれ1日1話、10日間で100話の物語を語るという体裁なのですが、なんとしたことか、この講談社文芸文庫版は完全版ではないのですね。ざっと見たところ4日分はまるまる省略でそのほかちょこちょこと何話か削られていて……それによって「枠」となっている10人のやりとりが途切れてしまっていてなんとも消化不良な部分が残ってしまいました。これはなんとしても全話読まなくては。
全体に、物語の内容はかなりあけすけなオトコとオンナばかり。こんな下世話な物語が何でルネサンスを代表する作品なのか?と思われる方もいるかもしれませんね。それはなぜか、私もわかりません(笑)。でも、狙ったわけではありませんが、この「笑い」こそが新しい時代の文化を象徴するものと考えていいかもしれません。純粋に楽しみのためだけにある書物。そんなあけすけな内容だからこそ「ルネサンス」としての批判精神や人間の自由な心性を謳いあげようとする気概が生きているのでしょう。
Tags:デカメロン, ボッカッチョ
nyu : 2008年11月23日 21:06 | Permalink | Comments (0) | Trackbacks (0) | その他
アンジェイェフスキ 川上洸訳 『灰とダイヤモンド 上・下』 岩波文庫
Jerzy Andrzejewski(1909-1983)はポーランドの作家です。この『灰とダイヤモンド』が舞台にしているのは1945年、ポーランドでの終戦の時です。ポーランドはドイツによってこの上ない災厄を被ったわけですが、戦中戦後を通じてのロシアによる影響によってまだまだ混乱が続くことになります。共産主義による政権側とそれに反対する勢力とのゲリラ戦、内戦状態が第2次世界大戦終了後も続きます。
本書で直接の舞台とされているのは1945年の5月、回想もまじえて登場人物たちが群像的に描かれます。ポーランド労働者党の幹部シチューカとポドグルスキが地方へと向かう途中、ポドグルスキがかつて世話になったコセーツキ判事の夫人アリチアを見かけてしばらく寄り道をします。コセーツキ判事はドイツ軍の収容所から解放されて帰ってきたところということでポドグルスキは再会を約します。ちょうどその時、工場労働者が乗った車が銃撃されるという事件が起きるのですが、実はそれはシチューカとポドグルスキを狙ったものだったのです。
これはポーランド亡命政府の息がかかったゲリラ組織によるテロだったのですが、ここでこのゲリラ組織の構成員であるマーチェクとアンジェイが登場します。彼らの標的は幹部のシチューカ。失敗に終わった暗殺計画は継続され、彼らもまた主要な登場人物として登場します。このように、地方の都市で互いに顔を突き合わせるような距離でさまざまな人間模様が展開していく物語です。洗練潔白な裁判官であったコセーツキ判事の収容所における経歴。判事夫人のアリチアの苦労とふたりの息子たち。ゲリラにあこがれる5人の子供たちによる「罪」。混乱のなかでの様々な人間模様はゲリラのマーチェクとホテルのウェイトレスのクリスティーナとの恋を一応の結末として迎え進行していくように見えたのですが……。
この本が発表されたのは1946年ということで、ちょうど渦中の時代の作品です。戦争が終わったのにまだ「戦争」が続くとは。ユーモア感の漂うような文章によって描かれる悲劇です。もちろんこれは安穏と本を読んでいるだけの者だけが感じられることですが、そのような悲劇が起きるということがなによりの悲劇ということでもあります。正義も悪もごく相対的なもの。暴力の次には暴力。
Tags:Jerzy Andrzejewski, アンジェイェフスキ, ポーランド
nyu : 2008年08月03日 09:05 | Permalink | Comments (0) | Trackbacks (0) | その他